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(投稿) 12年の時を超えて

2023年01月16日

Posted by キョウリン at 14:11 Comments( 0 )
(投稿) 12年の時を超えて  (2期生 真喜志 彰)

 12年の時を超えて、ジェイソン君がやってきた。彼は大阪の外語大学に日本語の語学留学のためアメリカから2月に来日し、10月の休暇を利用して大阪から来県したのだ。
 彼は3年前に亡くなった祖母のアサ子さんの出身地である石垣に行ってみたいと、事前に日程の相談で連絡があった。きっと自分のルーツが知りたかったのだろう。時あたかもタイミングよく、世界のウチナーンチュ大会が開催される直前であった。
 12年前に元職場OBのOさん、Aさんと3人でアメリカ東海岸を旅したことがあった。その時、Oさんの奥さんの従姉であるアサ子さんが住むサウスカロナイナ州チャールストンの自宅に、1週間もホームステイしてアメリカの旅を満喫した。
 アサ子さんには3人姉妹の子供がおり、自宅近くに住んでいた。その長女の子供で、当時10歳のジェイソン君がいた。初孫の男の子で、アサ子さんは大変可愛がっていた。彼は活発な明るい野球少年で、我々は1度彼の野球の試合を観戦したこともあった。
 我々がチャールストンを辞去する時、Oさんがアサ子さんを前にしてジェイソン君に、日本語を勉強して大きくなったらおばあちゃんと一緒に沖縄へ遊びにいらっしゃい、と伝えた。そのことを2人とも忘れずにいて、きっとアサ子さんがジェイソン君に、事あるごとに沖縄の話をして日本語を教え、興味を持たせて沖縄行きの後押しをしていたかも知れない。
 そしてあっという間に12年の時が流れて、成長したジェイソン君が10月26日に5泊6日の日程で沖縄にやってきた。Oさん夫妻とAさん、私の4名で、夕方の那覇空港で彼を出迎えた。彼は今風の若者らしく黒いアノラックを着けて、背中にはデイパックを背負っていた。マスクをしていたが、一目見てあの頃の面影が目元に残る好青年になっていた。そこで感激の再会となった。
 3人でジェイソン君を連れて浦添市内のOさん行きつけの居酒屋に直行し、ささやかな歓迎会を開いた。ビールで乾杯し、沖縄料理を食べながらいろいろと楽しい会話を交わしていった。
 彼の日本語はまだたどたどしく、時折スマホのアプリで翻訳しながら日本語と英語混じりで話し、英語の部分はAさんが通訳して話が進んでいった。
 彼は今、地元のチャールストン大学の4年生で語学留学のため休学し、12月に帰国する予定だという。そして来年復学し、9月頃卒業するという。専攻はアジア研究だと言った。卒業後は教職に就きたいがまだ決まっていないという。
 少し酔いが回った頃、アサ子さんの次女でジェイソン君の叔母のメリッサが2013年に亡くなったこと、そしてアサ子さんが2019年に亡くなったことを話して、我々は大変寂しいよと話した。するとジェイソン君が意外な顔をして「ノー、ノー、メリッサは生きているよ、シーイズアライブ、元気だよ」と言ってスマホで彼女の写真を見せた。そこで3人ともびっくり仰天した。何ということだ。メリッサは生きていた。
 彼女は交通事故に遭って重体であったが、その後亡くなったということをその当時、我々は聞いていた。どういう経緯でこの様な誤解が生まれたのかホントに不思議である。
 しかし、何はともあれ、こんな素晴らしい朗報はない。ホントにサプライズである。3名とも安堵して、全員で「メリッサに乾杯、チアーズ、ウィアーソーハッピイ」と、何度もビールジョッキで祝杯をあげた。
 翌日、ジェイソン君は早速1泊の石垣旅行をOさんの奥さんが案内して行った。石垣に住むアサ子さんの弟で実家の仏壇を預かるMさんの家を訪問して、大勢のファミリーが暖かく歓迎してくれて嬉しかったこと、また、お墓参りもして、川平湾や玉取崎なども案内してもらったようだ。
 石垣から戻った彼に、仏壇に手を合わせてウートートーしたかと聞くと、ほほ笑んでイエスと応えた。そしてAさんと私でジェイソン君を北部の美ら海水族館や今帰仁城址など、お決まりのコースで1泊旅行をした。
 翌朝、名護のホテルで朝食後、部屋でくつろいでいる時、ジェイソン君がスマホを操作してAさんに手渡した。するとスマホのビデオ通話の画面には、懐かしいメリッサの笑顔が映っていて「ハイ、Aさんお元気!」と元気な声が響いてきた。Aさんはあっけにとられて驚いていたが、直ぐに得意の英語で会話を始めた。メリッサが亡くなったと聞いていたことを伝えると、キョトンとして彼女は不思議そうな顔をして「私は生きているわよ」と苦笑いを浮かべた。
 スマホの画面から見るメリッサは、12年前とは多少印象が違って見えて丸い顔が細くなっていたが、元気な張りのある声は昔のままであった。
 次にAさんがいきなり私にスマホを渡した。私はしどろもどろに、「ハイ、メリッサ、アーユーゴースト?」と言うと、彼女も他の2人も大笑いとなった。どうやら、メリッサの死亡説はアサ子さんしか知らない闇の中であり、これ以上彼女にその件を聞くのは野暮であった。
 さて、我々は名護のホテルを出発し、宜野座、金武からうるま市の海中道路、勝連城址と見学した。そして帰路に与那原で与那原ソバを食べた。ジェイソン君は大の沖縄ソバ好きであった。
 彼は夕方Oさん家族と浦添のてだこ祭りに出かけて、Oさんのお孫さんたちと花火を楽しんで絆を深めた様だ。
 そして6日目の最終日。台風22号の影響で朝から大雨であった。飛行機は夕方の便のため、今度はOさんも同行し、4名で降りしきる雨の中、守礼門、首里城歓会門を見学した。奇しくもその日は31
日で、首里城火災からちょうど3年目であった。
 玉泉洞の中を見学後、雨は止まないため観光を早々に切り上げて、Oさんの奥さんと姉が待つ浦添市内のレストランに向かった。そこでジェイソン君のささやかな送別会を開いた。
その後空港へ向かい、お別れの握手、ハグをして、そしてジェイソン君は搭乗口のなかへと消えていったのである。あわただしい6日間であったが、心に残る日々であった。
 後日、彼のフェイスブックには「ようやく祖母の出身地である島を訪れて、今まで見たこともないファミリーに出会って正直言葉を失った。やっと自分のルーツが何であるか知ることができて嬉しい」と書かれていた。
 彼は自分の「ウチナールーツ」を見つけたのだ。胸が熱くなった。ジェイソン君の今後の健闘を祈りたい。

   ジェイソン君の歓迎会 2022.10.26




7月24日の記事

2022年07月24日

Posted by キョウリン at 20:41 Comments( 0 )





























7月20日の記事

2022年07月20日

Posted by キョウリン at 23:15 Comments( 0 )
久高




7月20日の記事

2022年07月20日

Posted by キョウリン at 23:08 Comments( 0 )
久高島


7月20日の記事

2022年07月20日

Posted by キョウリン at 23:01 Comments( 0 )

恒久平和の碑

2022年05月14日

Posted by キョウリン at 21:37 Comments( 0 )
お断り! 下記の内容は沖縄タイムスの掲載記事です。
当協会の安里事務局長が参加しました。

恒久平和の碑を清掃する有志ら=1日、那覇市の与儀公園
(左端は安里事務局長)

「戦争をすぐにやめることが大事」 恒久平和の碑を磨く 那覇市 憲法記念日前に有志 (2022年5月2日沖縄タイムス掲載記事)

 3日の憲法記念日を前に、おきなわ住民自治研究所理事長の真栄里泰山さん(77)ら有志15人は1日、那覇市の与儀公園にある憲法9条を刻んだ「恒久平和の碑」を清め、平和を願った。
有志らは、タオルで碑を磨き、周辺の落ち葉などを拾った。清掃後は日本音楽協議会県支部のメンバーが平和の歌を披露したほか、参加者全員で憲法前文や9条を読み上げた。
 清掃は2年前から続けている。真栄里さんは「ロシアのウクライナ侵攻で大勢が犠牲になっている。戦争をすぐにやめることが大事だ」と強調。今こそ憲法や9条の精神を訴えていく必要があると説いた。
 那覇市内の職場の同僚と参加した大嶺和恵さん(69)は「身近に恒久平和の碑があることを、多くの人に伝えたい」と話した。
 碑は1985年、全国で初めて「平和都市なは」のシンボルとして当時の親泊康晴市長が建立した。





役員会のお知らせ

2022年04月08日

Posted by キョウリン at 22:14 Comments( 0 )
久しぶりに開催します、4月下旬頃
コロナが、蔓延した場合には延期します、宜しくおぬがいします、、






4月8日の記事

2022年04月08日

Posted by キョウリン at 16:48 Comments( 0 )
コロナ負けるな、


4月8日の記事

2022年04月08日

Posted by キョウリン at 16:25 Comments( 0 )
4月下旬に役員会議やる予定してます、、



役員会議

2022年04月08日

Posted by キョウリン at 16:01 Comments( 0 )